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与田剛(よだ つよし )

前中日ドラゴンズ監督。生年月日:1965年12月4日。千葉県君津市出身。亜細亜大学卒業。身長182cm、体重94kg。右投右打。背番号92。妻は元TBSアナウンサーでキャスターの木場弘子

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イチロー 天才バッターとバット職人の数奇な運命

巨人ファンだった父親の影響で

 巨人ファンだった父親と5歳からキャッチボールを始め、10歳で学校の野球クラブに加入。球は速かったもののコントロールが悪くてエースになれず、中学時代は外野手兼控え投手だったが、将来はプロ野球選手になると決めていたという。

速球は注目されるも

 父親がガンで闘病していたため野球を諦めて働くことも考えたが、木更津中央高校(現木更津総合高校)からスポーツ特待生の声が掛かって進学。野球漬けの生活を送り、2年生でエースとなる。持ち前の速球はプロのスカウトの目にも留まったが、制球の悪さから目立った活躍はできず、甲子園出場もならなかった。

大学4年間の公式戦は1勝のみ

 テストに合格し、特待生として亜細亜大学に進学。1年生の時に父が死去した。大学時代は怪我に苦しみ、3年生の時には手術も受けたため、4年間の公式戦は1勝のみに終わる。

肩幅を生かしてスリークウォーターに

 しかし社会人の名門・NTT東京に入社すると、1年目の終わりに投球フォームを、広い肩幅と長いリーチを生かせるスリークウォーターに変えたのをきっかけに才能が開花。投球に安定感が出て2年目からエースとして活躍し、野茂英雄や潮崎哲也らとともに日本代表にも選ばれ、インターコンチネンタルカップやアジア選手権に出場した。

野茂英雄を8球団が指名する中

 89年のドラフト会議では他球団が野茂英雄を指名する中、星野仙一監督が与田獲得を熱望し、中日ドラゴンズが単独1位指名。在京球団を希望していたものの、星野監督の熱意に応えて中日に入団した。

衝撃のルーキーイヤー

 90年シーズンではルーキーながら開幕戦から抑え投手として活躍し、8月には当時の日本最速記録157キロをマーク。オールスターにもファン投票1位で選出されて第2戦に先発登板、清原和博(当時西武)に直球勝負を挑むも場外ホームランを打たれた。

2年目のジンクス

 同年は31セーブを挙げ最優秀救援投手賞、新人王を受賞したが、翌年は「2年のジンクス」に苦しみ0勝3敗2セーブに終わる。3年目こそ23セーブを挙げたが以降怪我や不調に苦しみ、千葉ロッテ、日本ハム、阪神と渡り歩いた後2000年のシーズンを最後に現役を引退した。

WBC投手コーチ

 引退後は解説者として活動していたが、09年の第2回WBCでは日本代表投手コーチ(ブルペン担当)として大会2連覇に貢献。13年の第3回WBC日本代表でも投手コーチを務めた(準決勝敗退)。

楽天コーチを経て中日監督に

 15年11月、楽天イーグルス一軍投手コーチに就任。18年は二軍投手コーチ。18年10月に中日ドラゴンズ監督に就任。1年目の19年シーズンは7年連続Bクラスとなる5位だったが、20年は3位となり、8年ぶりのAクラス入りを果たした。

監督退任

 21年は5位に終わって同年シーズン限りで監督を退任した。後任は立浪和義。22年シーズンから球団エグゼクティブ・アドバイザーに就任する。

通算成績

148試合8勝19敗59セーブ 212奪三振 防御率4.58。

関連人物

木場弘子 星野仙一

LAST UP 2021/12/03