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田中将大(たなか まさひろ)

プロ野球選手:東北楽天ゴールデンイーグルス投手。背番号18。右投右打。生年月日:1988年11月1日。兵庫県伊丹市出身。駒澤大学附属苫小牧高校卒業。身長188cm、体重97kg。血液型:A型。

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野村克也と団野村の関係と野村沙知代の影

小学生時代は坂本勇人とバッテリー

 父親がファンだったゴルファー・尾崎将司と、同じくかつて大ファンだった山口百恵の次男・三浦貴大(たかひろ)に因んで「将大」と名付けられる。

 巨人ファンでもあった父親の影響で、小学1年で「昆陽里(こやのさと)タイガース」に入団。強肩を買われて捕手に抜擢され、エースの坂本勇人(現巨人)とバッテリーを組み、4番打者としても活躍して6年生の時に県大会準優勝。

イチローの恋人に教わったスライダー

 坂本とは小・中学校の同級生だが小学校卒業後は別のチームに進み、田中はかつてオリックスで打撃投手を務め、『イチローの恋人』と呼ばれた奥村幸治が監督の「宝塚ボーイズ」に入団。奥村の勧めでピッチャーを始めると投打に渡って活躍、地元強豪校の誘いもあったが、奥村の勧めで北海道の駒大苫小牧高校に進学した。得意球のスライダーは奥村から教わったもの。

早実斎藤佑樹との激闘

 北海道勢初優勝を遂げた1年夏の甲子園はベンチ入りできなかったが、翌年春に甲子園初登板(2回戦敗退)を果たすと、同年夏の大会では先発にリリーフに活躍して連覇に貢献、「北の怪物」として注目を集めるようになる。

 3連覇がかかった3年夏の甲子園は順当に勝ち上がるも、決勝は早稲田実業の斎藤佑樹と投げ合って延長15回引き分け。翌日の再試合で惜しくも敗れたが、決勝・再試合は高校野球史に残る名勝負として語り継がれている。

4球団競合から1巡目で楽天入団

 同06年の高校生ドラフトでは1巡目指名で日本ハム、オリックス、横浜、楽天の4球団競合の末、楽天に入団。1年目の07年は3月に初登板、4月に初勝利を初完投で飾ってファン投票1位でオールスターにも出場し、球団初の二桁勝利(11勝7敗)を挙げて新人王を獲得。08年は9勝と僅かに二桁には届かなかったが初セーブを記録し、北京五輪にも出場した。

 09年は日本代表としてWBC連覇に貢献し、シーズンでも15勝(6敗)を挙げ、球団初のクライマックスシリーズ進出に貢献。10年は怪我でプロ入り後最少の20試合登板にとどまったがチーム最多の11勝。

防御率1.27で初の沢村賞

 11年は3度の月間MVP、1試合18奪三振(歴代2位)を記録し、斎藤佑樹とのプロ初対決も制してパ・リーグ歴代2位、セ・パ通じて歴代5位の防御率1.27を記録。最多勝(19勝)、最優秀防御率、最優秀投手(勝率7割9部2厘)の三冠を獲得し、嶋基宏と最優秀バッテリー賞も受賞。ベストナイン、ゴールデングラブ賞も獲得し、初の沢村賞に輝いた。

 12年3月にタレントの里田まいと結婚。初の開幕投手を務めた12年は4年連続二桁勝利(10勝)をあげ、初の最多奪三振を獲得した。

24勝0敗でメジャー移籍

 13年はWBCに出場。シーズンでは24勝0敗1セーブで、同一シーズン24連勝、前年を合わせて28連勝、ポストシーズンを含めて30連勝、と3つの記録がギネスに認定されるなど、様々なプロ野球記録を塗り替え、球団を初の日本一に導き、最多勝、最優秀防御率、勝率1位、沢村賞、ベストナイン、パ・リーグMVPなどタイトルを総なめにした。オフにポスティングシステムを利用してメジャーリーグ、ニューヨーク・ヤンキースに移籍。

日米通算100勝

 14年はメジャー初登板の試合で勝利を挙げ、日米通算100勝を達成。7月に右肘靭帯の部分断裂の診断を受けるも保存療法を選択、9月に復帰し、1年目を13勝5敗で終える。日本人4人目の開幕投手を務めた15年は12勝7敗でオフに右肘の骨片除去手術を受けた。

 16年は2月に第一子の長男が誕生。2年連続の開幕投手を務め、渡米後初めて規定投球回数に到達し、チーム最多、自身メジャー最多の14勝を挙げた。

日本人初の3年連続開幕投手

 第4回WBCへの不参加を表明して臨んだ17年シーズンは日本人初となる、3年連続開幕投手、デビューから4年連続2桁勝利を達成。日本人最速の101試合目でのメジャー通算50勝、日米通算150勝も達成した。

 18年は開幕投手は逃したが、1950年以降5人目のメジャーデビューから5年連続12勝以上を達成。

 19年は4度目の開幕投手を務めて悲願の開幕戦初勝利を飾る。14年以来2度目の選出となったオールスターでは初登板を果たし、1回無失点で日本人初の勝利投手となる。日本人初の6年連続2桁勝利を達成し、シーズン終了後右ひじのクリーニング手術を受けた。

日本復帰

 20年は新型コロナウイルスの影響で60試合制だったこともあってシーズン3勝(10試合3勝3敗 防御率3.56)にとどまり、日本時代から続けていた連続2桁勝利が11年でストップ。

 21年1月に古巣楽天と2年契約を結び、8年ぶりに日本球界に復帰した。推定年俸9億円プラス出来高は日本球界最高額となる。

21、22年シーズン

 21年シーズンは4勝9敗でプロ入り後初の負け越しとなった。23試合4勝9敗 防御率3.01 奪三振126。

 22年シーズンは25試合に登板して9勝12敗 防御率3.31 奪三振126。

通算成績(22年終了時)

NPB:223試合112勝56敗3セーブ 防御率2.47 奪三振1490。
MLB:174試合78勝46敗0セーブ 防御率3.74 奪三振991。

関連人物

奥村幸治 斎藤佑樹 星野仙一

LAST UP 2023/05/03