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髙木美帆(たかぎ みほ)

スピードスケート選手:日本体育大学所属。生年月日:1994年5月22日。北海道出身。日本体育大学体育学部体育学科卒業。身長164cm。姉は同じくスピードスケート選手の髙木菜那。

中山美穂にちなんで

 3人兄姉の末っ子として生まれる。父親がファンだった女優・中山美穂にちなんで「みほ」と名付けられた。

天才少女

 スケートをしていた兄と姉の影響で、5歳でスケートを始める。幼い頃から才能を発揮し「全十勝児童スケート選手権」を小学1年から6年まで6年連続優勝。2位に大差をつける圧勝で小学生ですでに注目される存在になった。

サッカーでも

 小・中学校時代はサッカーにも取り組み、抜群の運動神経と恵まれた体格を生かしてFWとして活躍。中学時代には日本サッカー協会の「ナショナルトレセン女子U-15合宿」のメンバーに招集されるなどサッカーでも非凡な才能を示した。陸上競技でも好成績を残したほかヒップホップダンスも習い、学業も優秀だったという。

スーパー中学生

 09年1月の全日本ジュニア選手権で総合優勝し、2月の世界ジュニア選手権で総合4位。

 12月のバンクーバー五輪代表選考会では1500mで優勝。1000mと3000mでは3位に入り、1000m、1500m、チームパシュートの代表に選ばれる。15歳での代表入りは日本スピードスケート史上最年少で『スーパー中学生』と脚光を浴びた。

バンクーバー五輪

 しかし10年バンクーバー五輪は、1000mは完走した35人中最下位、1500mは23位に終わる。チームパシュートは日本は銀メダルを獲得したものの補欠の髙木は一度も出場せず、規定によりメダルももらえなかった。

ソチ五輪落選

 姉と同じ北海道帯広南商業高校に進学し、高校2年、3年と世界ジュニア選手権で日本人初となる総合2連覇を達成。実業団からの誘いもあったものの、13年に日体大に進学。同年のユニバーシアードでは1000mで金メダルを獲得したが、ソチ五輪代表選考会では出場した種目全てで5位に終わり、代表から落選した。

ヨハン・デビット

 14年ソチ五輪で日本のスピードスケートはメダルなしの惨敗に終わり、強化のため新たにナショナルチームが組織される。髙木もチームに選ばれると、15年2月の世界距離別選手権のチームパシュートで姉・菜那らと日本初の金メダルを獲得。

 同年ナショナルチームに招聘されたオランダ人コーチ、ヨハン・デビットの指導を受けて大きく成長し、15年12月の全日本スプリント選手権で初の総合優勝。16年12月のワールドカップ1000mで初優勝を果たすと、同月の全日本選手権でも初の総合優勝、田畑真紀以来14年ぶりとなる全4種目を制しての完全優勝だった。

平昌五輪

 17年に日体大を卒業して同大の氷上スポーツ研究室助手となる。その後もトップスケーターとして、チームパシュートで世界新記録を樹立するなど活躍を続ける。

 18年平昌オリンピックでは1500mで銀メダル獲得すると、1000mは銅メダル。チームパシュートでは姉の菜那とともに金メダルを獲得した。日本の女子選手が一つの五輪で金銀銅のメダルを獲得するのは夏季冬季通じて初の快挙だった。

世界選手権優勝

 18年3月の世界オールラウンド選手権では、男女を通じて欧米勢以外では史上初となる総合優勝を成し遂げる。19年3月のワールドカップでは1500mで女子では初めて1分50秒の壁を破る1分49秒83の世界新記録を樹立。20年2月の世界スプリント選手権では総合優勝を飾った。

北京オリンピック

 20年4月に日体大の助手から事務職員となり、広報課に配属される。

 自身3度目の五輪となる22年北京オリンピックでは日本選手団主将を務め、500m、1500m、チームパシュートで銀メダル、1000mで金メダルを獲得した。1大会で4つのメダルは日本女子初、男女通じて冬季五輪日本最多で、通算7つのメダルは夏冬通じて日本女子最多記録。 

参考文献

【 高木菜那・美帆 ともに頂点へ 】

関連人物

岡崎朋美 橋本聖子

LAST UP 2022/02/20