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橋本聖子(はしもと せいこ)

参議院議員。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長。生年月日:1964年10月5日。北海道出身。駒澤大学附属苫小牧高校卒業。本名:石崎聖子(旧姓:橋本)。

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オリンピックの申し子 橋本聖子の五輪運

聖火に因んで聖子

 牧場を経営する家に4人姉兄の末っ子として生まれる。出生5日後の東京五輪開会式を現地で観て感動した父親により、聖火に因んで「聖子」と名づけられた。

 幼い頃から「将来オリンピックに出るんだぞ」と父親に言い聞かされ、3歳でスケートを始めると、持ち前の運動神経でみるみる上達。しかし小学3年の時に腎臓病で2ヶ月入院し、2年間スポーツを禁止される。6年生でスケートを再開し、中学1年で全道中学大会500m優勝。2年生からはコーチの家に下宿して練習漬けの生活を送り、3年生の時に全日本ジュニア選手権500mで史上最年少優勝。

高校生史上初の2冠

 高校2年で高校生史上初の全日本選手権、全日本スプリント選手権の2冠に輝くも、3年の秋に急性肝炎と呼吸筋不全を併発して2ヶ月間入院。競技を続ければ命に関わると言われたが、反対を押し切ってすぐに復帰し、21年ぶり史上4人目の全日本選手権完全優勝を達成(500・1500・3000・5000m全4種目1位)、世界ジュニア選手権でも銀メダルを獲得した。

サラエボ五輪出場

 83年に富士急行に入社し、翌84年に念願のサラエボ五輪に出場。開会式では聖火を見て鳥肌が立つほど感動したが、同時に達成感に浸って気持ちが切れてしまい、不本意な成績に終わる(500mの11位が最高)。

日本人初の夏冬五輪出場

 しかし日本選手団旗手を務めた88年カルガリー五輪は、出場した5種目(500・1000・1500・3000・5000m)全てで日本記録を更新し、全種目入賞(最高5位)。5000mでは倒れ込みながらゴールし、感動を呼んだ。同年は自転車競技でソウル五輪にも出場し、日本人初の夏冬五輪出場を達成している。

冬季五輪日本女子初メダル

 90年に全日本選手権10連覇を達成し、世界選手権では日本人初の総合銀メダルを獲得。92年アルベールビル五輪では1500mで冬季五輪日本女子初のメダル(銅)を獲得、バルセロナ夏季五輪にも出場した。

女性初の日本選手団主将

 女性初の日本選手団主将を務めた94年リレハンメル五輪は3000mで6位に入賞し、大会後富士急を退社。その後はプロ自転車選手として活動し、95年には参院選自民党比例代表候補として初当選、96年アトランタ五輪を最後に選手生活を終えた。五輪7大会出場は当時の女子世界最多記録。

引退後は参院議員として

 引退後は参院議員として自民党副幹事長、外務副大臣などを歴任。日本スケート連盟会長も務め、10年バンクーバー五輪は女性初の日本選手団長を務めた。19年の参院選比例代表で5期目の当選を果たした。

初入閣

 19年9月、東京五輪・パラ担当、内閣府特命担当、女性活躍担当大臣に就任、初入閣を果たした。入閣に伴い、それまで務めていた日本スケート連盟会長、日本自転車競技連盟会長、日本オリンピック委員会副会長などの役職は全て退任した。

組織員会会長就任

 21年2月、辞任した森喜朗の後任として、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長に就任。これにより大臣職を退任、自民党を離党した。

子供の名前は五輪に因み

 なお98年に結婚し、3人の子供を出産。シドニー五輪開催の00年に生まれた娘に「せいか」、アテネ五輪の年に生まれた息子に「亘利翔(ぎりしゃ)」、トリノ五輪の年に生まれた息子に「朱李埜(とりの)」と自身と同じくオリンピックに因んだ名前をつけている。夫に3人の連れ子がいたため、現在は6児の母親。

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岡崎朋美

LAST UP 2021/03/08