ワダマメちゃんねる
矢沢永吉や奥田民生と同郷
出身地の広島県広島市は多くのミュージシャンを輩出しており、奥田民生は小学校の後輩で、家から500mほどのところには矢沢永吉が住んでいたという。
幼い頃から音楽好きで
幅広く商売を展開した事業家で地元の名士でもあった父親が大のジャズ好きだったため、幼い頃から音楽に囲まれて育つ。
小学1年でヴァイオリンを始め、ギターも習ったが、小学3年からドラムに夢中になり、5年生で兄や友だちとバンドを結成。中学生になると腕試しに県内のコンテストに出場するようになった。コンテストでは吉田拓郎とよく一緒になったという。
引く手あまたのスカウト
中学3年から叔父が支配人をしていたジャズ喫茶に出演するようになり、ドラムをやめてボーカルに転向すると、芸能プロダクションから盛んにスカウトされるようになる。父親の猛反対を押し切り、15歳で歌手を目指して単身上京した。
時代を代表するアイドル
明大中野高校定時制に通いながらレッスンに励み、72年に【 恋する季節 】でデビューするもレコードは売れずにいたが、5枚目のシングル【 情熱の嵐 】で初のトップテン入りを果すと、続く6枚目の【 ちぎれた愛 】で初のオリコン1位を獲得。
その後も【 激しい恋 】【 傷だらけのローラ 】などヒット曲を連発して74年には『NHK紅白歌合戦』に初出場。出演ドラマ【 寺内貫太郎一家 】も大ヒットして郷ひろみ、野口五郎とともに「新御三家」と呼ばれるトップアイドルとして活躍。
79年には【 YOUNG MAN 】が大ヒット。出演したCMもヒットし、後楽園球場コンサートや海外公演も成功させるなど、時代を代表するアイドルとして一世を風靡した。
妻と子供
長らく独身を通していたが、01年に18歳下の一般女性と結婚。翌年には第一子の女児が誕生、息子も二人もうけて3児の父親になる。
脳梗塞を発症
03年、ディナーショーで訪れていた韓国・済州島で脳梗塞を発症。入院、リハビリを経て復帰し、闘病を綴った【 あきらめない―脳梗塞からの挑戦 】を出版。
11年に脳梗塞を再発し、右半身麻痺の後遺症が残ったものの懸命のリハビリを経て復帰し、16年にはデビュー45周年記念コンサートを開催、フォトエッセイ【 THE45 】も発売した。
18年5月、急性心不全により死去した。63歳だった。
妻が手記を出版
死後、美紀夫人が著書【 蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年 】を出版。17年に渡る過酷な闘病生活など、これまで伏せられていた真実を明かしている。
参考文献
【 あきらめない―脳梗塞からの挑戦 】
【 ありのままに 「三度目の人生」を生きる 】
作品
【 主な音楽作品 】
【 主な出演作品 】
【 著書・関連書籍 】
LAST UP 2020/06/11