日本製鉄かずさマジック監督。1976年8月27日生、栃木県出身。國學院大學卒業。身長177cm、体重70kg。右投右打。本名:渡邊俊介。
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父の指導で野球に
國學院栃木高校野球部出身の父の指導で幼い頃から野球に取り組む。プロを目指していたわけではなかったが、しつけに厳しい父は指導も厳しく、よく殴られたと言う。
アンダースローに転向
小学生時代は父がコーチのチームでキャプテンを務めたものの目立つ選手ではなく、中学時代も控え投手だったため、「このままでは野球を続けていけない」と考えた父の勧めで中学2年でアンダースローに転向。
應武監督に誘われ
しかしその後も目立った活躍は出来ず、國學院栃木高校時代は投手コーチに就いた父の指導で厳しい練習に打ち込むも小関竜也(元巨人)に次ぐ2番手で、大学時代も控え投手に過ぎなかったが、4年生になる直前の試合中、たまたま投球を見ていた社会人・新日鐵君津の應武篤良監督(当時)が才能を見抜き、すぐに勧誘されて99年に入社。
ドラフト4位でロッテ入り
都市対抗などで活躍し、2000年にはプロに交じってシドニー五輪に出場(4位)。同年のドラフト会議で千葉ロッテから4位指名されて入団し、先発ローテーション入りした3年目の03年に9勝を挙げ、翌年は12勝。05年には自己最多の15勝を挙げて31年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献し、里崎智也とともに最優秀バッテリー賞を受賞。06年には第1回WBC日本代表として世界一に輝いた。
サブマリン
リリースポイントが世界一低いといわれる投球フォームを武器に『サブマリン』の異名で活躍。08年には3年ぶりの二桁勝利(13勝)を挙げ、09年WBCでも大会連覇に貢献。09年シーズンは自己ワーストの13敗(3勝)を喫するなど不本意な成績に終わったが、10年は8勝を挙げ、史上初のシーズン3位からの日本一に貢献した。
メジャー挑戦
11年は7勝、12年は4勝、13年は勝ち星なしに終わってメジャーリーグ挑戦を表明し、13年12月にボストン・レッドソックスとマイナー契約を締結。代理人は団野村。しかし翌年3月に解雇され、その後は米独立リーグ、ベネズエラリーグを渡り歩く。
古巣・新日鐵に復帰
15年12月に社会人野球・新日鐵住金かずさマジック(現日本製鉄かずさマジック)のコーチに就任。現役も続け、16年には社会人野球公式戦に登板。同年には学生野球資格回復研修会を受講し、翌年日本学生野球協会による適性審査で認定され資格を回復、現場での指導が可能になった。
20年1月、日本製鉄かずさマジック監督に就任した。
NPB通算成績
255試合87勝82敗1ホールド 防御率3.65 奪三振846。
関連人物
参考文献
作品
LAST UP 2020/06/09