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山下泰裕(やました やすひろ)

日本オリンピック委員会(JOC)会長。柔道家:八段。1957年6月1日生、熊本県出身。東海大学卒業。同大学院修了。180cm、125kg(現役時)。

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世界一になった斉藤仁が日本一になれずにいた、その時残した言葉とは?

東京五輪に憧れて

 小学1年の時、テレビで観た東京五輪に感動してオリンピックに憧れるようになる。柔道を始める前だったが同大会から五輪種目になった柔道の無差別級で神永昭夫がオランダのヘーシンクに敗れた姿が強く印象に残っているという。

小学3年で柔道を始めると

 幼い頃から飛び抜けて身体が大きく、小学生になると腕白なガキ大将として暴れ回ったため、見かねた母親の勧めで肥満対策を兼ねて小学3年で柔道を始める。並外れた体格と体力で見る見る上達し、6年生の時に地元の大会で優勝。観戦していた名門・藤園中学の監督から熱心に誘われて進学し、それまでの右組み手から左組み手に転向するなど徹底的に基本を叩き込まれ、1年生で黒帯を取得。3年生の時には主将として全国中学校柔道大会団体3連覇に貢献した。

地方ゆえ練習相手に悩み

 熊本の九州学院高校に進学し、1年生でインターハイ個人重量級、2年生で金鷲旗(団体)で優勝したが、地方校ゆえ練習相手不足に悩み、連覇を目指したインターハイで準決勝敗退。敗戦を機に高校2年の夏、神奈川の名門・東海大相模高校に転校した。

怪童現る

 相模高校時代は主に東海大学で練習し、同大のヨーロッパ遠征にも参加すると世界3位の選手を破るなど13戦全勝の好成績で大いに自信を付け、翌年には17歳高校3年で全日本選手権に初出場。準決勝で優勝した上村春樹に敗れるも3位に入賞して「怪童現る」と脚光を浴びた。

生涯最後の敗戦

 翌年大学1年の全日本でも準々決勝で上村に敗れたが、翌77年に史上最年少の19歳で全日本選手権を制覇。全日本選抜体重別選手権(95kg超級)でも初優勝して二冠を達成した。しかし全日本学生柔道体重別選手権決勝では吉岡剛に敗れ、これが生涯最後の敗戦となる。

痛み分け

 その後は引退まで連勝を続け、数々の大会で優勝。79年には史上初の全日本選手権3連覇を達成、世界選手権でも初出場初優勝(95kg超級)を果たし、モスクワ五輪では金メダル確実と言われたが、80年5月24日、日本のボイコットが決定。失意の中で出場した翌25日の全日本選抜体重別選手権兼モスクワ五輪最終選考会(当初の予定)では遠藤純男のカニばさみを受けて左足を骨折、試合続行不可能となり痛み分け(引き分け)となる。なお同大会は4選手によるリーグ戦で行われており、先に2勝していた山下の優勝となった。

 幸い大事には至らず、完治して復帰するとその後も連勝を続け、翌81年には史上初の世界選手権2階級制覇(95kg超級・無差別級)を成し遂げ、83年には95kg超級で世界選手権3連覇を達成した。

悲願の金メダルで国民栄誉賞

 84年ロサンゼルスオリンピック無差別級では右足の肉離れを押して悲願の金メダルを獲得、同年国民栄誉賞を受賞した。オリンピックの無差別級は同大会を最後に廃止されたため最後の無差別級金メダリスト。

203連勝のまま引退

 85年の全日本選手権では決勝で斉藤仁を下して前人未到の9連覇を達成し、203連勝(7引き分けをはさむ)を継続したまま27歳で現役を引退した。

対外国選手無敗

 数多くの国際大会に出場したが対外国選手無敗。ライバルと言われた斉藤仁にも8戦全勝するなど、ずば抜けた強さで数々の記録を残し、史上最強の柔道家とも言われる。

 現在は東海大学副学長、全日本柔道連盟会長などを務め、19年6月、日本オリンピック委員会会長に就任した。

関連人物

上村春樹 斉藤仁

LAST UP 2019/11/28