柔道家。ロサンゼルス五輪、ソウル五輪金メダリスト。1961年1月2日-2015年1月20日。青森県青森市出身。国士舘大学卒業。身長180㎝。
ワダマメちゃんねる
世界一になった斉藤仁が日本一になれずにいた、その時残した言葉とは?
柔道一直線に憧れて
子供の頃から身体が大きく、小学生の頃は相撲をやっていたが、小学6年の時に観たテレビドラマ【 柔道一直線 】に憧れ、中学進学後柔道を始める。
山下に勝つために
3年生の県大会で優勝し、卒業後名門・国士舘高校に進学。元々右利きで柔道も右組み手だったが、柔道部監督から「世界チャンピオンになって、山下(泰裕)に勝ちたかったら左組み手にしろ」と言われて入学直後に左組み手に転向。2、3年生とインターハイ団体を連覇し、3年生の時は個人戦重量級でも準優勝した。
ポスト山下
79年、国士舘大学1年の時に全日本学生選手権無差別級決勝で後のライバル・山下泰裕(当時東海大4年)と初対戦。抑え込みで敗れたが、110連勝中の山下をあわやのところまで追い込む善戦を見せて「ポスト山下」「山下ニ世」として注目を集める。
エベレストには登ったが
その後世界学生選手権、フランス国際などで優勝。83年には世界選手権(無差別級)で初出場初優勝を果たし、84年にはロサンゼルス五輪95kg超級で金メダルを獲得。しかし全日本選手権では山下に敗れて優勝できず、当時の状況を「エベレストには登ったけれど、富士山は制覇していない」と綴っている。
山下引退
山下との最後の対戦となった85年4月の全日本選手権決勝でも僅差の判定で敗れ、対山下通算8戦8敗に終わり、1度も勝てないまま85年に山下が引退。
悲願の全日本初優勝
85年9月の世界選手権は95キロ超級と無差別級の2階級制覇を目指すも、最初に出場した95キロ超級の決勝で左肘を脱臼し棄権負け。無差別級は欠場した(代役の正木嘉美が優勝)。
左肘は靭帯損傷も判明し、手負いのまま出場した86年の全日本は準決勝敗退。87年全日本は練習中に右膝半月板損傷、靭帯部分断裂の大怪我を負い欠場した。
88年は決勝で大会2連覇中の正木嘉美に判定勝ちで、7度目の出場で悲願の全日本選手権初優勝。史上5人目のオリンピック、世界選手権、全日本の三冠王者となった。
五輪連覇
日本選手団主将を務めた88年ソウル五輪では日本柔道陣の苦戦が続く中、95kg超級で唯一の金メダルを獲得してオリンピック2連覇を達成した。
オリンピックを最後に現役を引退。指導者となって国士舘大学柔道部監督に就任。日本代表男子監督も務めたが、北京五輪後の08年10月に退任した。後任はシドニー五輪銀メダルの篠原信一。
死去
退任後全日本強化副委員長となり、12年に強化委員長に昇格。しかし13年に胆管がんが発覚。闘病生活に入ったが15年1月、がん性胸膜炎により死去した。54歳だった。
殿堂入り
18年9月、日本人6人目の国際柔道連盟(IJF)の殿堂入りを果たした。
史上初親子優勝
22年の全日本選手権で次男の斉藤立が優勝。史上初の親子優勝となった。
関連人物
作品
LAST UP 2022/04/30