侍ジャパンU-12代表監督。元プロ野球選手:内野手。1971年10月4日生、茨城県出身。早稲田大学卒業。筑波大学大学院修士課程修了。身長171cm、体重73kg。右投右打。
- ワダマメちゃんねる
- 父親に練習を強制され
- 名将・木内幸男のもと甲子園準優勝
- ドラフト指名凍結選手
- 3人連続の背番号8の新人王
- メジャーを視野にFA宣言するも
- 初の開幕スタメン落ちと2軍落ち
- 横浜/独立リーグ
- 原辰徳との確執の噂
- 引退後の活動
- 侍ジャパン
- 通算成績
- 関連人物
- 作品
ワダマメちゃんねる
父親に練習を強制され
出身地・茨城県古河市はサッカーが盛んだったが、父親の影響で野球が好きで、小学4年で野球チームに入団。以降父親から過酷な練習を強制され、遊ぶ時間もなくなって毎日嫌でたまらなかったが、それでも野球が好きだったと言う。なお子供の頃は原辰徳の大ファンで部屋にはポスターを貼り、雑誌懸賞でサイン入りバットも当選している。
名将・木内幸男のもと甲子園準優勝
地元の強豪・常総学院高校に進学すると、「父親以上の存在」と語る名将・木内幸男監督のもとですぐにレギュラー入りし、1年夏の甲子園で準優勝。主将も務めて、3年連続夏の甲子園に出場。プロの誘いもあったが実力不足を感じて見送り、特別選抜入試で早大に進学。
ドラフト指名凍結選手
1年春からベンチ入りし、2年生でレギュラーを獲得。主将を務めた4年春に早慶戦史上初のサヨナラ満塁ホームランを放ち、秋には7季ぶりのリーグ優勝を達成。一方で日本代表でも活躍していたため、96年アトランタ五輪を目標にドラフト指名凍結選手となり、社会人・日本生命に入社した。
3人連続の背番号8の新人王
社会人には2年在籍。1年目のオフには結婚もしたが、次第にプロ入りが遅くなることに不安を抱くようになり、五輪を諦めて95年秋にドラフト2位の逆指名で読売ジャイアンツに入団。同年引退した原辰徳の背番号8を受け継ぐと、1年目の96年シーズンは開幕スタメン入りして打率.270、7本塁打をマーク。高田繁、原に続き巨人の背番号8では3人連続となる新人王を獲得した。
メジャーを視野にFA宣言するも
2000年の日本シリーズでMVPを受賞。99年から2年連続でヒット1本足りずに打率.298に終わってシーズン3割の経験はないが、20本塁打以上を3度マーク(最高は04年の28本)。サイクルヒットも達成し、02年は盗塁成功率100%(22盗塁)を記録。04年にはメジャーリーグを視野にFA宣言したが、獲得球団が現れず、巨人に残留した。
初の開幕スタメン落ちと2軍落ち
ゴールデングラブ賞を4度獲得するなど二塁手としても高い評価を受けていたが、06年に原が監督に復帰すると、プロ入り後初めて開幕スタメンを逃す。初の2軍落ちも経験するなど出場機会が減ったため移籍を志願し、シーズン終了後小田嶋正邦(プラス金銭)とのトレードで横浜ベイスターズに移籍した。
横浜/独立リーグ
横浜では背番号7を着け、07、08年はレギュラーとして活躍したが、09年は開幕から不振に陥って自己ワーストの成績に終わり、シーズン終了後横浜を退団。10年4月に米独立リーグ、アトランティックリーグのランカスター・バーンストーマーズに入団、31試合に出場して打率2割8厘、1本塁打、3打点の成績を残し、6月に現役を引退した。
原辰徳との確執の噂
なおプロ入り時から歯に衣着せぬ発言で「ビッグマウス」と呼ばれ、巨人時代は原監督との確執が噂されたが著書等で否定している。
引退後の活動
引退後は解説者を務めながら、10年9月に米独立リーグ・サザンメリーランドの臨時コーチを務め、13年には「仁志ベースボールアカデミー」を開校するなど、指導者としても活躍。13年7月には筑波大大学院に合格した(16年に修士課程修了)。
侍ジャパン
小久保裕紀監督のもので日本代表・侍ジャパンの内野守備・走塁コーチを担当。現在は侍ジャパンU-12代表監督を務めている。
通算成績
1587試合 1591安打 154本塁打 541打点 打率.268 135盗塁。
関連人物
LAST UP 2020/03/19