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話題の人物のプロフィール、生い立ちを有名人、芸能、スポーツ選手などジャンルにとらわれずに紹介しています

大家友和(おおか ともかず)

元プロ野球選手。生年月日:1976年3月18日。京都府出身。身長185cm、体重91kg。右投両打。

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野村克也と団野村の関係と野村沙知代の影

ドカベンに憧れもピッチャーに

 3人兄弟の次男として生まれる。小学2年の時に両親が離婚、兄弟3人母親に引き取られる。

 漫画【 ドカベン 】に憧れ、小学3年で少年野球チームに入団。ドカベンと同じキャッチャーを希望するも外野手となったが、肩の強さを買われて5年生でピッチャーに転向。

兄の援助で私立に進学

 中学卒業後強豪・京都成章高校に進学。私立は経済的に厳しかったが、プロを目指すのを条件に兄が援助を引き受けトラック運転手に転職、結婚も延期してくれたという。

太田幸司以来の高卒新人4月初勝利

 3年生でエースになるも府大会決勝で敗れ、甲子園出場はならなかったが、ドラフト3位で横浜ベイスターズに入団。94年4月、70年の太田幸司以来となる高卒ルーキー4月初勝利を挙げる。リリーフ登板でたった3球で掴んだ初勝利だった。その後は一軍二軍を行き来する日々が続き、渡米前の勝利数は初勝利の1勝のみ。

金銭トレードでレッドソックスに移籍

 97年に教育リーグに参加したのをきっかけにメジャーリーグに憧れるようになり、98年11月に金銭トレードでボストン・レッドソックスに移籍。99年シーズンが始まると2A、3Aで無敗の15連勝を記録して7月にメジャー初昇格、10月に初勝利を挙げる。

3Aで完全試合を達成

 その後エクスポズ、ナショナルズ、ブルワーズ、ブルージェイズを渡り歩いて2桁勝利を3度記録。07年には野茂英雄以来日本人二人目のメジャー通算50勝を挙げた。2000年6月には3Aで完全試合を達成している。

 07年6月にブルージェイズから戦力外通告。カージナルス、マリナーズ、ホワイトソックスとマイナー契約するも活躍できずにいたが、08年12月にクリーブランド・インディアンスとマイナー契約を結ぶと09年5月、2年ぶりにメジャー昇格し、18試合に登板して1勝5敗。

横浜に復帰

 シーズン終了後FAとなって10年3月にメキシコ・リーグ、キンタナローと契約するも外国人枠により直後に自由契約となる。4月に12年ぶりに古巣・横浜に復帰。先発ローテーションの一角として22試合に登板し、7勝(9敗)を挙げた。

現役引退

 11年は7試合に先発するも0勝6敗。9月に右肩のクリーニング手術を受けたが、10月に戦力外通告。12年は所属球団がなかったが、13年は独立リーグ「BCリーグ」の富山でプレー。12月にブルージェイズとマイナー契約を結ぶも14年3月に自由契約となる。14年は米、15、16年は日本の独立リーグでプレー。17年にオリオールズとマイナー契約を結んだが、3月に戦力外通告。6月に現役引退を表明した。

DeNA二軍投手コーチに

 17年10月、横浜DeNAベイスターズ二軍投手コーチに就任した。

 野球選手として活躍する一方、03年に立命館大学に入学。04年にはNPO法人「Field of Dreams」を設立して大家ベースボールクラブ(OBC)などを運営、社会人野球チーム「OBC高島」のGMも務めている。

 23年シーズン限りで二軍投手コーチを退任した。

現役通算成績

日本プロ野球:63試合8勝17敗 防御率5.23 奪三振112。
メジャーリーグ:202試合51勝68敗 防御率4.26 奪三振590。

関連人物

三浦大輔

LAST UP 2024/01/13

川相昌弘(かわい まさひろ)

読売ジャイアンツ内野守備コーチ。生年月日:1964年9月27日。岡山県出身。岡山南高校卒業。右投右打。身長176cm、体重77kg。

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中学時代はエース

 巨人ファンだった父親の影響で幼い頃から野球に親しみ、小学生でソフトボールを始める。中学校で本格的に野球を始めると、1年生からエースとして活躍。弱小校ゆえ目立った成績は挙げられなかったものの才能を高く評価され、名門・岡山東商業などの強豪から誘われたが、あえて当時まだ無名に近かった岡山南高校に進学。

甲子園出場から巨人入り

 エースとして2度甲子園に出場し、2年夏は1回戦敗退。3年春は2回戦で早稲田実業荒木大輔に完封負けを喫すも大学、社会人、プロから誘いを受け、三菱重工神戸入社が内定。しかし82年のドラフト会議で4位指名した巨人に入団した。4位では異例の3球団が競合している(巨人、近鉄、ヤクルト)。同期は荒木大輔の外れ1位の斎藤雅樹ら。

ショートでゴールデングラブ賞

 投手としての指名も入団後すぐ野手になり、2年目の84年に1軍初昇格、85年には初犠打となる送りバントを決める。初期は内外野を問わず守備固めでの出場が多かったが、89年にショートのレギュラーを獲得してゴールデングラブ賞を初受賞。

世界記録達成

 90年には和田豊(阪神)を抜くシーズン最多犠打記録を樹立(58犠打)し、翌年66に更新。シーズン最多記録は01年に宮本慎也(ヤクルト)に抜かれたが、03年には世界記録となる通算512犠打を達成。長年に渡ってバント職人、名遊撃手として巨人を支えた。88年に結婚した秀美夫人は高校の1年後輩で5人の子供をもうけている。

中日移籍

 当初は03年限りで引退し、原辰徳監督の下1軍コーチ就任予定だったが、原監督が電撃解任(後任は堀内恒夫)。その余波で2軍コーチへの格下げを言い渡されたため、引退を撤回して中日ドラゴンズにテスト入団。代打や守備固めで活躍し、06年にはメンタルアドバイザーにも就任した。

 06年限りで現役を引退して中日の内野守備走塁コーチに就任。10年には二軍監督を務めたが、シーズン終了後中日を退団し、8年ぶりに巨人に復帰して二軍監督に就任。一軍ヘッドコーチ、三軍監督を歴任し、二軍監督を務めた18年シーズン限りで退団した。

ファーム総監督に就任

 21年の春季キャンプでは阪神の臨時コーチを務め、守備やバントを指導。21年11月、古巣巨人のファーム総監督に就任することが発表された。23年シーズンは一軍総合コーチを担当。24年シーズンは一軍内野守備コーチを務める。

現役通算成績

1909試合 1199安打 43本塁打 322打点 打率.266 47盗塁 533犠打。

関連人物

荒木大輔 桑田真澄 原辰徳 元木大介

LAST UP 2024/01/11

元木大介(もとき だいすけ)

元プロ野球選手。生年月日:1971年12月30日。大阪府出身。上宮高校卒業。身長180cm、体重82kg。右投右打。

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プロの練習を間近で見て

 野球好きだった家族の影響で幼い頃から野球に親しみ、小学2年で少年野球チームに入団。そのチームは南海ホークス(現ソフトバンクホークス)の練習場で練習していたため、プロ野球選手の練習を間近で見ることができ刺激を受けたという。

王貞治に声を掛けられ

 野球漬けの生活を送り、父親の厳しい指導もあって4番エースとして活躍。6年生の時には当時巨人の監督だった王貞治と写真を撮る機会があり、「大きくなったら巨人軍に入れよ」と声を掛けられている。

歴代2位の甲子園通算本塁打

  中学時代はボーイズリーグで活躍してPL学園や近大附属など多くの強豪校から誘いを受けたが、早くから声を掛けられていた上宮高校に進学。

 甘いマスクでアイドル選手として人気を集め、2年春、3年春夏と3度甲子園に出場。2打席連続を含む通算6本塁打を放ち、3年春は準優勝を飾った(決勝は延長10回サヨナラ負け)。甲子園通算6本塁打は桑田真澄、中村奨成と並んで歴代2位タイ(1位は清原和博の13本)。

巨人以外拒否で浪人生活

 巨人以外は入団拒否を表明した89年ドラフト会議では、野茂英雄のハズレ1位で福岡ダイエーホークスに指名されるも入団拒否。マスコミからはバッシングを受けたが巨人入りを諦められず、ハワイに渡って1年間浪人生活を送った。

クセ者

 翌90年ドラフト会議の1位指名で憧れの巨人に入団。内外野守れる器用さと得点圏打率の高さが示す勝負強さでスーパーサブとして活躍。度々隠し球を成功させるなど長嶋茂雄監督(当時)からは「クセ者」と呼ばれた。2000年にはタレントで元日本テレビアナウンサーの大神いずみと結婚、06年に長男、10年に次男をもうけている。

引退後はタレントに

 05年9月に巨人から戦力外通告。他球団の誘いもあったが巨人にこだわり現役を引退した。引退後は野球解説のほか、持ち前のキャラクターをいかしてタレントととしても活躍。

少年野球世界一

 18年にU‐12日本代表監督に就任し、カル・リプケン12歳以下世界少年野球大会で優勝、大会3連覇に導いた。大会MVPは長男の元木翔大内野手。監督就任は星野仙一氏の推薦だったという。

巨人軍コーチに

 18年10月、読売ジャイアンツ一軍内野守備兼打撃コーチに就任。20年シーズンからヘッドコーチに昇格。20年9月には虫垂炎で一時チームを離脱し、阿部慎之助二軍監督がヘッドコーチ代行を務めた。

 22年シーズンはヘッド兼オフェンスチーフコーチ、23年は一軍作戦兼内野守備コーチを務めたが同シーズン限りで退任。24年からジャイアンツアカデミー校長を務める。

現役通算成績

1205試合 891安打 66本塁打 378打点 打率.262 21盗塁

関連人物

原辰徳 星野仙一 水野雄仁 吉村禎章

LAST UP 2024/01/10

小笠原道大(おがさわら みちひろ)

元プロ野球選手。生年月日:1973年10月25日。千葉県出身。暁星国際高校卒業。身長178cm、体重84kg。右投左打。

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父親の指示で左打ちに

 小学2年でリトルリーグに入団すると、右利きながら父親の指示で左打ちに転向。レフトやサードを守り、3番打者として全国大会3位。

高校時代はホームラン0

 中学時代はシニアリーグに所属。卒業後野球部強化に力を入れ始めていた暁星国際高校に進学し、中学時代のショートからセカンドに転向。2年生からはキャッチャーも守り、夏の甲子園県予選準優勝。翌年は優勝候補に挙げられたが初戦(2回戦)で敗退し、同校初の甲子園出場はならなかった。高校時代は打率こそ高かったもののホームランは0に終わっている。

コンビニルーキー

 92年NTT関東に入社。捕手のほかDH、内・外野も守って都市対抗などで活躍し、96年ドラフト会議の3位指名で日本ハムに入団。どこでも守れる「コンビニルーキー」として1軍定着し、2年目には指の骨折が完治しないままプロ初本塁打を放って『ガッツ』の愛称が定着。

史上最強の2番打者

 引退した落合博満に代わって2番ファーストのレギュラーを掴んだ3年目の99年は「史上最強の2番打者」として「ビックバン打線」の一角を担い、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞。00年、01年と2年連続で最多安打に輝き、02年には初の首位打者。03年には4年連続となる3割30本を達成した。

巨人にFA移籍

 04年にはアテネ五輪に出場して銅メダルを獲得し、06年の第1回WBCでは優勝に貢献。06年はシーズンでも本塁打王、打点王を獲得して25年ぶりのリーグ制覇、44年ぶりの日本一を果たしてリーグMVPを受賞し、シーズン終了後巨人にFA移籍。

史上初リーグまたいで2年連続MVP

 07年は4番も務めて5年ぶりのリーグ制覇に貢献し、史上初の両リーグをまたいでの2年連続MVPを受賞。08年は前半戦調子が上がらず北京五代表に選出されなかったが、後半戦は復調し、9月にはサイクルヒットも記録してリーグ連覇を達成。

歴代4位の早さで2000本安打

 09年WBCでは大会連覇に貢献し、同年はリーグ3連覇とともに日本シリーズも制覇。10年には史上18人目となる全球団からの本塁打を達成。11年は5月にプロ野球史上38人目、歴代4位の早さで2000本安打を達成したが、不振や死球による怪我で規定打席到達ならず。12年も自己最少の34試合出場、本塁打は0に終わる。

現役引退、指導者に

 13年シーズン終了後中日に移籍。代打の切り札として活躍し、15年限りで現役を引退。16年シーズンから中日二軍監督を務めた。19年10月、14年ぶりに古巣・日本ハムに復帰し、ヘッド兼打撃コーチに就任することが発表された。

巨人コーチ

 契約満了に21年シーズン限りで日本ハムを退団。21年11月、巨人の二軍打撃コーチに就任することが発表された。23年シーズンは三軍打撃コーチを務め、同シーズン限りで退任した

現役通算成績

1992試合 2120安打 378本塁打 1169打点 打率.310 63盗塁。

関連人物

桑田真澄 原辰徳 元木大介

LAST UP 2024/01/09

大久保博元(おおくぼ ひろもと)

元プロ野球選手:捕手。生年月日:1967年2月1日。茨城県出身。水戸商業高校卒業。別名:デーブ大久保。身長180cm、体重108kg。右投右打。

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アニメで見るデーブ大久保

3歳の時に父親が死去

 材木屋を営む家に二人兄弟の長男として生まれたが、3歳の時に父親が死去。その後は母親の女手一つで育てられる。

 子供の頃から体が大きく運動神経も抜群で、小学5年で野球を始めると、持ち前の長打力で強豪チームに引き抜かれ、中学1年で全国大会に出場。同年からは加倉井実(元巨人外野手)の家に下宿して打撃指導を受け、名門・水戸商業に進学した。子供の頃は喧嘩に明け暮れる暴れん坊でもあったという。

高校通算52本塁打

 甲子園出場こそないものの高校通算52本塁打で強打の捕手、『水戸の怪童』と呼ばれ、84年ドラフト会議で広沢克己の外れ1位で西武(現・埼玉西武)ライオンズ入団。

巨人移籍で才能が開花

 土井正博コーチのもとで打棒を磨き、1年間のアメリカ留学を経て87年にジュニアオールスターMVP。89年にはイースタン・リーグ新記録の24本塁打、70打点で二冠王に輝くも、当時は西武黄金時代で不動の正捕手・伊東勤がいたため1軍では出場機会に恵まれずにいたが、92年5月に中尾孝義との交換トレードで巨人に移籍すると一気に才能が開花。移籍直後からホームランを連発して6月の月間MVPを受賞し、オールスターにも出場。「大久保効果」といわれる活躍で優勝争いに貢献した。

 しかし翌年からは怪我やコーチとの確執で出番が減少、94年こそ日本一に貢献したものの翌95年シーズン終了後28歳の若さで現役を引退。

打撃コーチで日本一に貢献するも

 引退後はタレントや解説者、ゴルファーとして活躍していたが、渡辺久信監督の要請を受けて07年10月に埼玉西武の一軍打撃コーチに就任。若手の育成に努め、中村剛也を本塁打王に導くなど日本一に大きく貢献するも、知人女性への暴行などプライベートのトラブルから08年シーズン終了後退任、編成部プロ担当となる。

 指導力を買われて09年10月に二軍打撃コーチとして現場復帰したが10年7月に不適切な指導などを理由に解任、球団本部長付となり、その後の調査で選手への暴行行為が認められたため解雇となる。契約解除の無効確認などを求めて球団を提訴したが、11年10月に請求放棄し、東北楽天の一軍打撃コーチに就任した。

楽天監督に就任

 12年シーズン終了後二軍監督に就任。14年シーズンは星野仙一監督の休養中に一軍監督代行を務め、星野監督の退任により、14年10月に東北楽天一軍監督に就任。しかし15年は最下位に終わり、1シーズンで監督を退任した。

巨人復帰

 退任後はタレント、野球解説者として活躍しながら、東京・新橋で居酒屋「肉蔵デーブ」を経営。22年10月、巨人軍の一軍打撃チーフコーチ就任が発表された。現役引退以来28年ぶりの古巣復帰となる。

巨人退団

 23年シーズンは3年ぶりのリーグ優勝を目指し、チーム本塁打、チーム打率ともにリーグ1位を記録したが、チームは2年連続の4位に終わり、23年シーズン限りで退団した。

家族

 なお87年オフに結婚した夫人との間には長女、長男、次女の3児をもうけ、長男はかつて東亜学園高校野球部主将を務め、専修大学、社会人セガサミーで活躍した。

現役通算成績

303試合 158安打 41本塁打 100打点 打率.249 1盗塁。

関連人物

高橋由伸 原辰徳 星野仙一 元木大介 

LAST UP 2024/01/08

桑田真澄(くわた ますみ)

読売ジャイアンツ二軍監督。生年月日:1968年4月1日。大阪府出身。身長174cm、体重80kg。PL学園高校卒業。早稲田大学大学院修了。右投右打。モデルのMattは次男。

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KKコンビ秘話

 誕生日4月1日は早生まれになるため、2日生まれに変更するよう父親が病院に頼んだが認められなかったという。認められていたら後の『KKコンビ』は誕生しなかった。

 大の野球好きの父親の影響で小学2年でソフトボールチームに入団するとすぐに才能を認められ、2年生ながら6年生と同じトップチームのレギュラー入り。4年生でボーイズリーグ「八尾フレンド」に移って本格的に野球を始めると、その後はチーム練習のほか父親が考案した独自の練習方法で中学卒業まで毎日過酷な練習に打ち込んだ。小学生時代は勉強には手をつけず、今からは想像付かない喧嘩無敵のガキ大将でもあったという。

甲子園を席巻

 中学時代は西山秀二(後に南海、広島、巨人で活躍)とのバッテリーで注目を集めて全国の強豪16校から誘いを受け、83年にPL学園高校に進学。同期の清原和博らと1年夏から出場可能な5大会全てで甲子園に出場。1年夏、3年夏と2度優勝し、桑田自身も戦後最多となる甲子園通算20勝を挙げ、打者としても清原に次ぐ歴代2位の6本塁打を記録。桑田・清原の『KKコンビ』がいたPL学園は高校野球史上最強とも言われる。

進学希望も巨人入り

 85年ドラフト会議の1位指名で巨人に入団。桑田は早稲田大学進学希望を表明し、巨人は相思相愛と思われた清原の1位指名が確実視されていたため密約を疑われ、ドラフト時に涙を浮かべて同情を受けた清原とは対照的に激しいバッシングを受けた。

2年目に沢村賞

 1年目の86年は5月に初登板、6月に初勝利を挙げるも2勝1敗に終わって深刻な自信喪失に陥ったというが、2年目は15勝を挙げて最優勝防御率、沢村賞、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞するなど大きく飛躍。その後は斎藤雅樹、槙原寛己と三本柱として活躍し、95年の右ひじ靭帯断裂などの試練を乗り越え、エースとして巨人を支えた。

メジャー挑戦

 06年限りで巨人を退団。メジャーリーグ、ピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結ぶと07年は開幕直前の怪我を乗り越えて6月にメジャー昇格。19試合に登板するも勝星を挙げられず8月に戦力外通告を受けたが、08年に再びパイレーツとマイナー契約を結んで招待選手としてキャンプに参加。3月にオープン戦ながらメジャー初勝利を挙げたが開幕メジャーならず現役引退を表明した。

憧れの早大に

 09年1月に早大大学院スポーツ科学研究科1年制コースに合格して憧れの「早大生」となる。翌年3月同コースを首席で修了した。

東大

 13年から2年間、東京大学野球部で特別コーチを務める。14年には東大大学院の総合文化研究科に合格。16年からは特任研究員として投球と打撃における合理的・効率的な動作などの研究を続ける。

 19年3月には鈴木大地長官のもと、萩原智子らとともにスポーツ庁参与に任命された。任期は2020年3月末まで。

巨人復帰

 21年1月、古巣巨人の一軍投手チーフコーチ補佐に就任。21年11月、投手チーフコーチ昇格が発表された。23年はファーム総監督を務め、24年シーズンは二軍監督を務める。

現役通算成績

日本プロ野球:442試合173勝141敗14セーブ 防御率3.55。
メジャーリーグ:19試合0勝1敗 防御率9.43。

関連人物

上原浩治 佐々木主浩 原辰徳 元木大介

LAST UP 2024/01/07

原辰徳(はら たつのり)

元プロ野球選手。生年月日:1958年7月22日。神奈川県出身。東海大学政治経済学部卒業。身長181cm、体重84kg。右投右打。

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父は高校球界の名将

 高校野球監督・原貢を父に持ち、幼い頃に野球を始める。しかし英才教育を受けたわけでなく、中学2年の時に足首を複雑骨折した際は野球をやめるよう勧められたという。その後も続けて4番ピッチャーで活躍し、父が監督の東海大相模高校に進学。

甲子園に原フィーバー

 入学後本格的に父の指導を受けるようになり、「親子鷹」として注目を集めて1年生からクリーンアップを打ち、3年間で4度甲子園出場。2年春には準優勝を飾るなど高校球界のアイドルとして「原フィーバー」を巻き起こし、映画会社・東映からもスカウトされた。

王と入れ替わるように巨人入り

 プロ入りを拒否して東海大に進学し、父も同大監督に就任。首都大学リーグで三冠王、MVP、ベストナインなど数々のタイトルを獲得し、80年秋のドラフト会議では1位指名で4球団が競合、同年引退した王貞治と入れ替わるように巨人に入団した。

新人王

 ゴールデンルーキーとして大きな期待を集めた81年は開幕戦からスタメン出場してオールスターにも出場し、打率.268、22本塁打で新人王を獲得。翌年は最多勝利打点、83年は2年連続の最多勝利打点とともに103打点で打点王も獲得し、セ・リーグMVPに輝いた。

若大将

 86年には自己最多の36本塁打を放つなど入団から12年連続で20本塁打以上を記録。『若大将』と呼ばれて長年巨人の4番を務め、89年日本シリーズでの満塁ホームランや92年ヤクルト戦での本塁打後のバット投げはファンの語りぐさになっている。

監督1年目で日本一

 95年に現役を引退。解説者を経て99年に巨人に復帰して野手総合コーチ、ヘッドコーチを歴任し、長嶋茂雄の後を受けて監督に就任すると02年、就任1年で日本一に導いた。

WBC優勝

 翌年は3位に終わって1度退任したが、06年シーズンから監督に復帰し、07年、08年とセ・リーグを連覇。09年には日本代表監督として第2回WBCで大会連覇に導くと、同年のペナントレースでは3連覇を成し遂げ、7年ぶりの日本一奪回も果たした。

 10年はリーグ3位に終わり、クライマックスシリーズ(CS)でもセカンドステージで敗退。11年も3位に終わり、CSファーストステージで敗れた。

史上初の5冠

 12年は3年ぶりの日本一。交流戦、セ・リーグ、CS、アジアシリーズも制して、史上初の5冠を達成した。

 13年はリーグ連覇を果たすも日本シリーズで楽天に敗れる。14年はリーグ3連覇を達成したが、CSで阪神に敗退。15年はリーグ2位、CSファイナルステージでヤクルトに敗れ、監督を退任した(後任は高橋由伸)。

殿堂入り・3度目の監督就任

 18年に野球殿堂入り。同年10月、高橋由伸の後任として3度目の監督に就任。19年は5年ぶりのリーグ優勝を果たしCSも制したが、日本シリーズではソフトバンクに4連敗を喫した。

 2020年シーズンは監督通算1067勝を達成。川上哲治を上回り、巨人軍監督通算勝利数歴代1位となる。2年連続のリーグ優勝を果たすも、日本シリーズではソフトバンクに2年連続となる4連敗を喫した。

監督退任

 21年はリーグ3位。22年、23年はリーグ4位で2年連続Bクラスとなり、3年契約を1年残して監督を退任した。後任は阿部慎之助。

現役通算成績

1697試合 1675安打 382本塁打 1093打点 打率.279 82盗塁。

関連人物

高橋由伸 水野雄仁 元木大介 吉村禎章

LAST UP 2024/01/05

田中将大(たなか まさひろ)

プロ野球選手:東北楽天ゴールデンイーグルス投手。背番号18。右投右打。生年月日:1988年11月1日。兵庫県伊丹市出身。駒澤大学附属苫小牧高校卒業。身長188cm、体重97kg。血液型:A型。

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野村克也と団野村の関係と野村沙知代の影

小学生時代は坂本勇人とバッテリー

 父親がファンだったゴルファー・尾崎将司と、同じくかつて大ファンだった山口百恵の次男・三浦貴大(たかひろ)に因んで「将大」と名付けられる。

 巨人ファンでもあった父親の影響で、小学1年で「昆陽里(こやのさと)タイガース」に入団。強肩を買われて捕手に抜擢され、エースの坂本勇人(現巨人)とバッテリーを組み、4番打者としても活躍して6年生の時に県大会準優勝。

イチローの恋人に教わったスライダー

 坂本とは小・中学校の同級生だが小学校卒業後は別のチームに進み、田中はかつてオリックスで打撃投手を務め、『イチローの恋人』と呼ばれた奥村幸治が監督の「宝塚ボーイズ」に入団。奥村の勧めでピッチャーを始めると投打に渡って活躍、地元強豪校の誘いもあったが、奥村の勧めで北海道の駒大苫小牧高校に進学した。得意球のスライダーは奥村から教わったもの。

早実斎藤佑樹との激闘

 北海道勢初優勝を遂げた1年夏の甲子園はベンチ入りできなかったが、翌年春に甲子園初登板(2回戦敗退)を果たすと、同年夏の大会では先発にリリーフに活躍して連覇に貢献、「北の怪物」として注目を集めるようになる。

 3連覇がかかった3年夏の甲子園は順当に勝ち上がるも、決勝は早稲田実業の斎藤佑樹と投げ合って延長15回引き分け。翌日の再試合で惜しくも敗れたが、決勝・再試合は高校野球史に残る名勝負として語り継がれている。

4球団競合から1巡目で楽天入団

 同06年の高校生ドラフトでは1巡目指名で日本ハム、オリックス、横浜、楽天の4球団競合の末、楽天に入団。1年目の07年は3月に初登板、4月に初勝利を初完投で飾ってファン投票1位でオールスターにも出場し、球団初の二桁勝利(11勝7敗)を挙げて新人王を獲得。08年は9勝と僅かに二桁には届かなかったが初セーブを記録し、北京五輪にも出場した。

 09年は日本代表としてWBC連覇に貢献し、シーズンでも15勝(6敗)を挙げ、球団初のクライマックスシリーズ進出に貢献。10年は怪我でプロ入り後最少の20試合登板にとどまったがチーム最多の11勝。

防御率1.27で初の沢村賞

 11年は3度の月間MVP、1試合18奪三振(歴代2位)を記録し、斎藤佑樹とのプロ初対決も制してパ・リーグ歴代2位、セ・パ通じて歴代5位の防御率1.27を記録。最多勝(19勝)、最優秀防御率、最優秀投手(勝率7割9部2厘)の三冠を獲得し、嶋基宏と最優秀バッテリー賞も受賞。ベストナイン、ゴールデングラブ賞も獲得し、初の沢村賞に輝いた。

 12年3月にタレントの里田まいと結婚。初の開幕投手を務めた12年は4年連続二桁勝利(10勝)をあげ、初の最多奪三振を獲得した。

24勝0敗でメジャー移籍

 13年はWBCに出場。シーズンでは24勝0敗1セーブで、同一シーズン24連勝、前年を合わせて28連勝、ポストシーズンを含めて30連勝、と3つの記録がギネスに認定されるなど、様々なプロ野球記録を塗り替え、球団を初の日本一に導き、最多勝、最優秀防御率、勝率1位、沢村賞、ベストナイン、パ・リーグMVPなどタイトルを総なめにした。オフにポスティングシステムを利用してメジャーリーグ、ニューヨーク・ヤンキースに移籍。

日米通算100勝

 14年はメジャー初登板の試合で勝利を挙げ、日米通算100勝を達成。7月に右肘靭帯の部分断裂の診断を受けるも保存療法を選択、9月に復帰し、1年目を13勝5敗で終える。日本人4人目の開幕投手を務めた15年は12勝7敗でオフに右肘の骨片除去手術を受けた。

 16年は2月に第一子の長男が誕生。2年連続の開幕投手を務め、渡米後初めて規定投球回数に到達し、チーム最多、自身メジャー最多の14勝を挙げた。

日本人初の3年連続開幕投手

 第4回WBCへの不参加を表明して臨んだ17年シーズンは日本人初となる、3年連続開幕投手、デビューから4年連続2桁勝利を達成。日本人最速の101試合目でのメジャー通算50勝、日米通算150勝も達成した。

 18年は開幕投手は逃したが、1950年以降5人目のメジャーデビューから5年連続12勝以上を達成。

 19年は4度目の開幕投手を務めて悲願の開幕戦初勝利を飾る。14年以来2度目の選出となったオールスターでは初登板を果たし、1回無失点で日本人初の勝利投手となる。日本人初の6年連続2桁勝利を達成し、シーズン終了後右ひじのクリーニング手術を受けた。

日本復帰

 20年は新型コロナウイルスの影響で60試合制だったこともあってシーズン3勝(10試合3勝3敗 防御率3.56)にとどまり、日本時代から続けていた連続2桁勝利が11年でストップ。

 21年1月に古巣楽天と2年契約を結び、8年ぶりに日本球界に復帰した。推定年俸9億円プラス出来高は日本球界最高額となる。

21、22年シーズン

 21年シーズンは4勝9敗でプロ入り後初の負け越しとなった。23試合4勝9敗 防御率3.01 奪三振126。

 22年シーズンは25試合に登板して9勝12敗 防御率3.31 奪三振126。

通算成績(22年終了時)

NPB:223試合112勝56敗3セーブ 防御率2.47 奪三振1490。
MLB:174試合78勝46敗0セーブ 防御率3.74 奪三振991。

関連人物

奥村幸治 斎藤佑樹 星野仙一

LAST UP 2023/05/03

松井稼頭央(まつい かずお)

埼玉西武ライオンズ一軍監督。背番号77。生年月日:1975年10月23日。大阪府出身。PL学園高校卒業。本名:松井和夫。右投両打。身長177cm、体重85kg。

実家は代々巨人ファン

 大阪出身ながら祖父の代から巨人ファンで、自身も幼い頃から原辰徳のファン。

 幼い頃から野球に取り組み、小学3年で「若江ジャイアンツ」に入団すると、4年生でピッチャーに抜擢。強肩・俊足で鳴らし、香川の強豪・尽誠学園の誘いもあったが、地元のPL学園高校に進学。

エースで甲子園出場

 名門校ながら1年春からベンチ入りし、2年春にはエースとして甲子園出場(準々決勝敗退)。肩や肘の怪我に悩まされ満足いくピッチングはできなかったが、プロのスカウトからは野球センスを高く評価されて野手として興味を示す球団が多く、93年ドラフト会議の3位指名で西武ライオンズに入団。

谷沢コーチの勧めで両打に

 入団後内野手となり、谷沢健一コーチの進言で右打ちからスイッチヒッターに転向すると、2年目に一軍昇格し、3年目にレギュラー定着。走攻守兼ね備えた遊撃手として活躍し、パ・リーグMVP、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、盗塁王など数々のタイトルを獲得。00年にサイクルヒット、02年にはトリプルスリーを達成し、2000年には「センチュリーベストナイン」にも選ばれた。

日本人初の内野手メジャー

 03年オフにFA宣言し、日本人初の内野手メジャーリーガーとしてニューヨーク・メッツに移籍。FA時、憧れの原辰徳が監督の巨人移籍も考えたが、原監督が辞任したため消滅したという。

 メジャー1年目の04年は開幕戦先頭打者初球ホームランを放ったが、その後は怪我や不振で活躍できず、06年6月に交換トレードでコロラド・ロッキーズに移籍。07年はワールドシリーズ出場に貢献し、シーズン終了後3年契約でヒューストン・アストロズに移籍。

楽天入団

 09年8月に日米通算2000本安打を達成するも、10年は開幕から不振が続き、5月に戦力外通告を受けてアストロズを退団。その後はロッキーズ傘下の3Aでプレーしたが10年11月に楽天イーグルスに入団、8年ぶりに日本球界に復帰した。

 12、13年は楽天の主将を務める。13年は日本代表に選ばれWBCに出場し、シーズンでは球団創設初のリーグ制覇。CS、日本シリーズも制し、初の日本一を成し遂げた。

現役引退

 14年シーズン中に外野手に転向し、外野手登録となった15年はNPB通算2000本安打を達成。17年にはNPB通算200本塁打を達成した。

 17年シーズン終了後15年ぶりに西武に復帰。テクニカルコーチを兼任したが、同年限りで現役を引退、二軍監督に就任した。22年シーズンから一軍ヘッドコーチとなった。

監督就任

 22年10月、辻発彦の後任として一軍監督に就任することが発表された。

通算成績

日本プロ野球:1913試合 2090安打 201本塁打 837打点 打率.291 363盗塁。
メジャーリーグ:630試合 615安打 32本塁打 211打点 打率.267 102盗塁。

関連人物

原辰徳 松坂大輔

LAST UP 2023/04/17

水野雄仁(みずの かつひと)

元プロ野球選手:投手。生年月日:1965年9月3日。徳島県出身。徳島県立池田高校卒業。右投右打。身長178㎝、体重82㎏。

ワダマメちゃんねる


水野雄仁が少年時代に投球術を磨いた方法

スポーツ一家

 父は元軟式野球の国体選手で母は高校時代にバレーボール部で活躍。姉もバレーでユニバーシアード日本代表に選ばれたスポーツ一家。

野球中継を見ながら配球予想

 小学1年の時、3歳上の兄が友達と作ったチームに加入して野球を始める。数合わせの9人目だったため他は全員4年生だったが負けじと練習し、4年生でピッチャーになる。小学生の頃から父や兄と野球中継を見ながら配球を予想し、ゲーム感覚で配球を読み合い、球種当てをしていたことがプロ入り後も投球の組み立てに役立ったという。

王貞治との縁

 1977年9月3日、自身の12歳の誕生日に巨人の王貞治が世界記録となる756号ホームランを放つ。自分のために打ってくれたような気分だったという。王は後の巨人入団時の監督でもある。

地獄のトレーニング

 中学校の野球部に入部するも荒れた学校で、何かにつけて先輩に殴られたため、練習をサボって悪さをするようになり、心配した父により慶山勝生のもとに預けられる。学校の練習に参加しながら、早朝の新聞配達、筋力トレーニング、ランニングなど1年半に渡る地獄のトレーニングを受け、中学生離れした実力を身に付けた。

阿波の金太郎

 地元・徳島の名門校からいくつも誘いを受け、池田高校に進学。名将・蔦文也監督の下で「山びこ打線」の一員として2年夏に甲子園出場。準々決勝で早稲田実業のエース・荒木大輔からホームランを放つなど同校の初優勝に貢献、「阿波の金太郎」と呼ばれて高校球界のスターとなった。

 翌年春はエースとして甲子園夏春連覇を達成。3年夏は準決勝で甲子園初出場の桑田・清原のKKコンビ擁するPL学園に0対7で敗れ、史上初の3季連続優勝はならなかった。

ドラフト1位で巨人入り

 83年ドラフト会議で巨人の1位指名で入団。巨人を希望していたもののファンだったわけではなく、東京に出たかったのと、巨人なら進学を望む両親を説得できるから、というのが理由だったという。

 王貞治監督の下、1年目に一軍デビューを果たすも、翌85年はシーズン前に右肩を故障し一軍登板なし。86年に8勝、87年には10勝を挙げたが、89年に藤田元司が監督に就任すると先発からリリーフに転向。92年は右肘を故障し一軍登板がなかったが、93年に就任した長嶋茂雄監督の下では貴重な中継ぎとして活躍した。

メジャー目指して現役復帰

 96年に現役を引退。しかし翌年にメジャーリーグを目指して現役に復帰し、ドミニカのウィンターリーグで日本人初の勝利投手となる。98年にはサンディエゴ・パドレスのスプリングキャンプに参加したがメジャー入りはならず、選手生活を終えた。

指導者に

 99年から2001年まで長嶋監督の下で巨人軍投手コーチを務める。その後は野球評論家として解説や講演活動、野球教室などを行っていたが18年10月、18年ぶりに巨人復帰、一軍投手コーチに就任した。

スカウト部長就任

 20年は巡回投手コーチを務めながらスカウトを兼務。21年はスカウト部参与を務め、21年10月にスカウト部長に就任。現在編成副本部長を兼任している。

通算成績

265試合 39勝29敗17セーブ 防御率3.10

関連人物

荒木大輔 桑田真澄 原辰徳 元木大介

LAST UP 2022/03/27