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増田明美(ますだ あけみ)

元マラソン選手、スポーツジャーナリスト。生年月日:1964年1月1日。千葉県夷隅郡岬町(現いすみ市)出身。法政大学中退。身長150㎝。血液型:AB型。

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増田明美 大谷翔平に通じるかもしれない先駆者としての苦難

弟は京大卒

 農業を営む家に二人姉弟の長女として生まれる。弟は後に京都大学工学部機械工学科に進学、同大学院を卒業し、研究者になっている。

助っ人の町内駅伝大会で快走

 子供の頃から身体が小さく運動も苦手だったが、アニメ【 エースをねらえ! 】に憧れて中学校で軟式テニス部に入部。部員の多さもあって試合に出られずにいたが、2年生の時、人数合わせの助っ人で出場した町内駅伝大会で快走。優勝の原動力となったのをきっかけに陸上部にも入部すると、3年生の県大会800mで千葉県新記録で優勝。全国大会では4位に入賞し、名門・成田高校の瀧田詔生監督から「いっしょに富士山のてっぺんに登ろう」と口説かれて同校に進学した。

天才ランナー

 瀧田の家に下宿して陸上に打ち込んだものの貧血に悩まされて練習についていけなくなり、瀧田からマネージャー転向を勧められる。断固拒否して部を離れ、転校も考えたほどだったが、半年のブランクを経て復帰。

 再び練習に打ち込むと3年生の時に、3000m、5000m、1万m、10km、20km、30km、フルマラソンの7種目で日本新記録を樹立。20kmマラソンでは世界新記録を出し「天才ランナー」、「女瀬古」と呼ばれて注目を集めた。

宗兄弟にマラソンの楽しさを

 いくつもの企業から誘いを受けたが、高校卒業後地元の川崎製鉄千葉(現・JFEスチール)に入社。陸上部を創部して増田、瀧田監督らが迎え入れられたが、入社後再び貧血に悩まされるようになり、83年1月の大阪国際女子マラソンでは貧血で倒れて途中棄権。病院に運ばれ引退も考えたが、その頃出会った宗茂・猛兄弟にマラソンの楽しさを教えられて復帰すると、9月のオレゴンTCマラソンでは日本記録を大幅に更新して優勝(自己記録の2時間30分30秒)。84年1月の大阪国際女子マラソンで2位に入り、女子マラソンが正式種目に採用されたロス五輪代表の座を獲得した。

ロス五輪途中棄権

 しかしオリンピックに向けた合宿での疲労がたたって再び体調を崩し、自分のために開かれた五輪壮行会を無断欠席するほど精神的にも追い詰められ、メダルが期待された84年ロサンゼルスオリンピックは16km地点で途中棄権。失意を抱えて帰国し、引退を表明して川崎製鉄を退社した。

マラソン復帰

 実家戻ると、大学受験中だった弟の後押しもあり、子供の頃からの憧れだった教師を目指して勉強に励み、法政大学に進学。楽しいキャンパスライフを送っていたもの、もう一度走りたくなって大学を中退し、86年にNECアメリカに入社してオレゴン大学に陸上留学。2年間過ごして自立心を身に付けて帰国する。

 88年大阪国際女子マラソンでは完走するも自己ワースト記録だったが、89年東京国際女子マラソンでは日本人最高の8位に入賞した。

引退

 92年大阪国際女子マラソンを最後に現役を引退。引退後は解説者、タレントとして活躍し、94年にはTVドラマ【 ブスでごめんね! 】にも出演。05年にファイナンシャルプランナーの井脇祐人と結婚、07年には自伝的小説【 カゼヲキル 】を出版して作家デビューを果たした。

解説者として

 マラソン解説での語り口が話題になり、テレビ番組等でナレーションを務めることも多く、17年のNHK朝の連続テレビ小説【 ひよっこ 】では「語り」を担当した。

 現在は日本パラ陸上競技連盟会長、大阪芸術大学教養課程教授なども務めている。

関連人物

有森裕子 小出義雄 瀬古利彦 高橋尚子

LAST UP 2020/10/17