柏レイソルヘッドコーチ。元サッカー日本代表。1967年9月18日生、滋賀県出身。筑波大学卒業。身長182cm、体重74kg。
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3年生でサッカーを始める
男3人兄弟の末っ子として生まれる。兄について小学2年からスポーツ少年団に通い、3年生で正式に入団して本格的にサッカーを始める。本来は4年生からしか入団できないが特別に認められたという。
フォワードとして活躍
持ち前の負けん気の強さで熱心に練習に打ち込み、4年生からセンターフォワードとして活躍。ゴールを量産して5年生の時には県大会で優勝して全国少年サッカー大会に出場し、中学時代もフォワードとして県大会優勝。近畿大会では準優勝して地元滋賀の強豪・守山高校に進学した。
松本育夫の指示でDFに
高校では入学前の春休みからサッカー部に参加して即レギュラーとなり、2年生の時にユース日本代表に初選出。小学生以来攻撃的ポジションをしていたが高校3年のユース代表合宿中に松本育夫監督(当時)の指示で怪我人の代わりにディフェンダーを任されたのがきっかけとなり、ディフェンダーに転向した。
筑波大学で中山雅史と同級生
卒業後筑波大学に進学し、同級生の中山雅史らとともに活躍して総理大臣杯で優勝。一方で体育教師を目指して教育実習も行い教員免許を取得したほか、コンビニや居酒屋などでアルバイトも行ったという。
カズを抑え日本リーグ新人王
大学2年の時に日本代表に初選出され、卒業後日産自動車サッカー部(現・横浜F・マリノス)に入団。1年目の90-91年シーズンは全試合にフル出場し、同年読売クラブに入団した三浦知良を抑えて日本リーグの新人王を受賞。
アジアの壁
以降日本を代表するリベロとして活躍して「アジアの壁」と呼ばれ、93年にはドーハの悲劇を経験し、95年にはJリーグ初優勝に貢献してアジア年間最優秀選手賞を受賞、98年のフランスワールドカップにはキャプテンとして出場した。国際Aマッチ出場122試合は日本男子選手歴代最多記録(女子の最多は澤穂希)。
引退後指導者に
2000年にはジュビロ磐田、01年からは浦和レッズでプレーし、02年に現役を引退。引退後はサッカー解説などで活躍し、06年には北京五輪出場を目指すU-21日本代表コーチに就任して07年の最終予選で北京五輪出場権を獲得。09年2月からはJリーグ・柏レイソルのヘッドコーチを務めている。
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LAST UP 2010/06/16