中山律子(なかやま りつこ)
日本プロボウリング協会会長。1942年、鹿児島県出身。鹿児島市立女子高校卒業。
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生まれは群馬・草津だが、幼い頃に転居した鹿児島で育つ。中学校で本格的にバレーボールを始め、高校時代はレギュラーとして活躍。卒業後、旭精機に入社し2年間実業団バレーで活躍した。
65年、友達に連れられて初めて行ったボウリングの面白さに魅了される。その後は母親が営んでいたおでん屋を手伝いながら練習に励み、67年に第1回全日本オープン選手権に出場。予選は1位通過したが決勝で当時アマチュア界にその名を轟かせていた須田開代子に敗れ入賞に終わった。
68年に上京、東京タワーボウリングセンターに勤務しながら練習に励むと当時のブームに乗って女子のプロ化が決定。69年に行われた第1期女子プロテストに合格しプロボウラーとなった。なお合格者は13人でテストの成績が2番だった中山は女子プロライセンスNO.2、NO.1は須田開代子。須田、石井利枝とともに「花のトリオ」と呼ばれて人気を博し、特にライバルの須田とは「人気の中山、実力の須田」として注目を集めた。
70年3月、第1回全日本女子プロボウリング選手権で優勝。8月の月例会決勝では女子プロ史上初となるパーフェクトゲームを達成した。同年のプロスポーツ大賞殊勲賞を受賞しNHK紅白歌合戦の審査員を務めたほか、『花王フェザーシャンプー』のCMにも出演し「さわやか律子さん」として国民的スターとなった。なおCMが制作されたのはパーフェクト前だったが放送開始がパーフェクトと同じ時期で、偶然にもパーフェクト時と同じ色のウエアを着ていたことが大きなインパクトになった。
73年には2度目のパーフェクトを達成したが同年に起きたオイルショックの影響でボウリング人気が下降、ボウリング場は閉鎖が相次ぎ、テレビ中継やトーナメントも激減したため、76年に須田が中心となって女子ボウラー団体、JLBC(ジャパンレディースボウリングクラブ)を設立、発起人の一人として参加した。
74年に結婚し、78年に第一子の長女を出産。産休や故障などで戦線を離れることもあったがボウリング人気低迷後も活躍を続け、ボウリング界を支え続けている。
95年に須田開代子が死去、葬儀では弔辞を読んだ。
98年にJLBC会長、04年に日本プロボウリング協会会長に就任した。
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