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水野雄仁(みずの かつひと)


読売ジャイアンツ一軍投手コーチ。背番号71。1965年9月3日生、徳島県出身。徳島県立池田高校卒業。右投右打。179p、78s。

 父は元軟式野球の国体選手で母は高校時代にバレーボール部で活躍、姉もバレーでユニバーシアード日本代表に選ばれたスポーツ一家。小学1年の時、3歳上の兄が友達と作ったチームに加入して野球を始める。数合わせの9人目だったため他は全員4年生だったが負けじと練習し、4年生でピッチャーになる。小学生の頃から父や兄と野球中継を見ながら配球を予想し、ゲーム感覚で球種当てをしていたことがプロ入り後も投球の組み立てに役立ったという。
 中学時代は野球部の上下関係になじめず、練習をサボって悪さをするようになったため、心配した父により慶山勝生の元に預けられる。学校の練習に参加しながら、早朝の新聞配達、筋力トレーニング、ランニングなど1年半に渡る地獄のトレーニングを受け、中学生離れした実力を身に付けた。
 数々の名門校から誘われ、池田高校に進学。名将・蔦文也監督の下で「山びこ打線」の一員として2年夏に甲子園出場。準々決勝で早稲田実業のエース・荒木大輔からホームランを放つなど同校の初優勝に貢献、高校球界のスターとなり「阿波の金太郎」と呼ばれた。翌年春はエースとして甲子園夏春連覇を達成。3年夏は準決勝で甲子園初出場の桑田・清原のKKコンビ擁するPL学園に敗れ、史上初の3季連続優勝はならなかった。
 83年ドラフト会議で巨人の1位指名で入団。巨人を希望していたがファンだったわけではなく、東京に出たかったのが理由だという。
 王貞治監督の下、1年目に一軍デビューを果たすも、翌85年はシーズン前に右肩を故障し一軍登板なし。87年には10勝を挙げたが、89年に藤田元司が監督に就任すると先発からリリーフに転向。92年は右肘を故障し一軍登板がなかったが、93年に就任した長嶋茂雄監督の下では貴重な中継ぎとして活躍した。
 96年に現役を引退、しかし翌年にメジャーリーグを目指して現役に復帰し、ドミニカのウィンターリーグで日本人初の勝利投手となる。98年にはサンディエゴ・パドレスのスプリングキャンプに参加したがメジャー入りはならず、選手生活を終えた。
 99年から2001年まで長嶋監督の下で巨人軍投手コーチを務める。その後は野球評論家として解説や講演活動、野球教室などを行っていたが18年10月、18年ぶりに巨人復帰、一軍投手コーチに就任した。
 通算成績:265試合39勝29敗17セーブ防御率3.10。

LAST UP 2018/12/09
 
作品
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