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星野仙一(ほしの せんいち)


北京オリンピック野球日本代表監督、阪神タイガース・シニアディレクター。
1947年1月22日生、岡山県出身。明治大学卒業。

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生まれる3ヶ月前に父親が病死したため、二人の姉とともに母親の女手一つで育てられる。幼い頃から身体が大きくて負けん気が強く、腕白なガキ大将としてあばれ回る一方、阪神ファンだった姉の影響でプロ野球選手に憧れ、チームを作って野球に興じた。
中学進学後野球部に入部するも弱小校だったが、エース星野の豪速球は注目を集め、倉敷商業高校から誘われて同校に進学した。なお当初は県内一の強豪・倉敷工業への進学を考えていたが、倉敷商業野球部長の「君の力で甲子園に連れて行ってくれ」の口説き文句に心を動かされたと言う。
高校時代はエースとして活躍したが、予選の決勝で敗れて甲子園出場はならず。しかしプロのスカウトからは高い評価を受け、数球団から誘いを受けたが母親が大学進学を望んだため、野球部監督の母校でもある明治大学に進学した。
明治大学では名物監督・島岡吉郎のもとで1つ上の先輩・高田繁(後に巨人で活躍)らとともに東京六大学野球で活躍。2年秋の立教大学戦では六大学史上14人目のノーヒットノーランを達成するなど、法政大学の田淵幸一山本浩司(後の浩二)らと熱戦を繰り広げた。
68年のドラフト会議では巨人から指名を約束され、自身も入団を決めていたが実際に巨人が指名したのは武相高校の島野修。これを聞いた星野は「星と島の間違いじゃないか」と言って激怒し、結局1位指名した中日ドラゴンズに入団したが、この時の経験が後の巨人キラーと呼ばれる活躍につながったという。
1年目の69年は8勝を挙げ、シーズンオフには大学時代から交際していた扶沙子さんと結婚。74年には15勝10Sを挙げ、巨人のV10を阻んでリーグ優勝し沢村賞とセ・リーグ初代最多セーブのタイトルを獲得。75年には17勝を挙げて最高勝率を獲得し、77年には自己最多の18勝を挙げるなど14年間中日一筋でエースとして活躍し、「燃える男」と呼ばれた。
82年限りで現役を引退。引退後は解説者を経て87-91年、96-01年に中日ドラゴンズの監督を務め、2度リーグ制覇。02-03年に阪神タイガースの監督を務めると、03年には18年ぶりのリーグ優勝を果たし、監督退任後阪神タイガースオーナー付シニアディレクターに就任した。なお監督時代の97年に妻・扶沙子さん、03年には母・敏子さんが死去している。
07年に野球日本代表監督就任し、同年のアジア予選で北京オリンピック出場権を獲得。現状では野球の実施が最後となる同大会で悲願の金メダル獲得を目指したが準決勝で敗退。3位決定戦でも敗れメダル獲得はならなかった。
現役通算成績:500試合 146勝121敗34セーブ 1225奪三振 防御率3.60。
関連項目:北京オリンピック特集>選手名鑑

LAST UP 2008/08/23
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