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星野仙一(ほしの せんいち)


元プロ野球選手。1947年1月22日-2018年1月4日。岡山県出身。
明治大学政治経済学部卒業。 右投右打。身長180p。

 生まれる3ヶ月前に父親が病死し、二人の姉とともに母親の女手一つで育てられる。身体が大きく、負けん気の強いガキ大将としてあばれ回る一方、阪神ファンだった姉の影響でプロ野球選手に憧れ、チームを作って野球に興じた。
 中学進学後野球部に入部するも弱小校だったが、豪速球が注目を集めて、倉敷商業高校に進学。当初は県内一の強豪・倉敷工業を考えていたが、倉商野球部長の「君の力で甲子園に連れて行ってくれ」の口説き文句に心を動かされたと言う。
 予選の決勝で敗れて甲子園出場はならずもプロ数球団から誘われたが、母親が進学を望んだため野球部監督の母校でもある明治大学に進学。名物監督・島岡吉郎のもと、1つ上の先輩・高田繁(のち巨人)らとともに東京六大学リーグで活躍。法政の田淵幸一山本浩司(後の浩二)らと熱戦を繰り広げ、2年秋の立教戦ではノーヒットノーランを達成した。
 68年ドラフト会議では巨人から指名を約束され、入団を決めていたが実際に巨人が指名したのは武相高校の島野修。「星と島の間違いじゃないか」と激怒し、結局1位指名した中日ドラゴンズに入団したが、この経験が後の「巨人キラー」と呼ばれる活躍につながったという。
 1年目の69年は8勝を挙げ、オフに大学時代から交際していた扶沙子さんと結婚。74年には15勝10Sを挙げ、巨人のV10を阻んでリーグ優勝し、沢村賞とセ・リーグ初代最多セーブを獲得。75年には17勝を挙げて最高勝率を獲得し、77年には自己最多の18勝を挙げるなど中日一筋で活躍、「燃える男」と呼ばれた。
 82年に現役引退。解説者を経て87-91年、96-01年に中日の監督を務め、2度リーグ制覇。02-03年に阪神タイガースの監督を務めると、03年には18年ぶりのリーグ優勝を果たし、監督退任後阪神タイガースオーナー付シニアディレクターに就任した。なお監督時代の97年に妻・扶沙子さん、03年には母・敏子さんが死去している。
 07年には日本代表監督に就任。現状では野球の実施が最後となる北京五輪で悲願の金メダル獲得を目指したが準決勝で敗退。3位決定戦でも敗れメダル獲得はならなかった。
 10年10月に阪神を退団し、楽天イーグルス監督に就任。11年は5位、12年は4位。12年5月には史上12人目、戦後生まれでは初の監督通算1000勝を達成。
 13年は球団初のリーグ優勝、日本一に導いた。日本一は自身初。しかし14年は腰痛による一時休養もあって最下位に終わり、監督を退任。
 17年に野球殿堂入り。18年1月、すい臓がんにより死去した。70歳だった。監督時代に着けていた背番号77は楽天の永久欠番となっている。
 現役通算成績:500試合 146勝121敗34セーブ 1225奪三振 防御率3.60。

LAST UP 2018/12/03
  
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